温泉ってなんか汚なそうで、あんまり好きじゃなかった。内湯でさえ小汚い印象があって、鳥肌が立つくらい嫌いだったのだ。ましてや露天風呂なんて、考えただけで背筋に寒けが走る。しかしその時は、混浴という甘い2文字に、スケベ心が勝ってしまったのかもしれない。秋山郷・屋敷温泉、観光ガイドに乗っていた露天風呂の写真を見て、彼女の甘い誘いに乗ってしまったのである…。
(これは温泉にさして興味の無いそんな若者が、観光ガイドで適当にチョイスした宿がたまたま本格的過ぎたらどうなるか、というドキュメンタリーである。)
[某年某月某日 PM5:00]
その日、宿泊予約しているくせに田舎町のジャスコで遊び過ぎ、いつの間にか辺りはそろそろ暗くなり始める時間になっていた。もちろん宿まではまだ全然遠い。とりあえず宿に遅くなる旨電話を入れておき、私らは車に飛び乗って急いで出発した。
[PM6:30]
高速を降りるころには、とっぷりと日は暮れていた。秋山郷に行ったことがある人は知っているだろうが、あそこはとんでもない山奥なのだ。高速から離れるにつれ外灯が少なくなっていき、山道に入る頃には一本の外灯も無くなっていた。漆黒の闇である。車のヘッドランプに照らされる範囲以外は、墨を流したように何も見えない。しかも道路は未舗装で、車は上下に跳ね回る。しかもたまたまBGMは『サイズ』のアルバムで、幻想的な声が恐怖感を煽る。岩崎宏美の『万華鏡』をかけてみようかとちらっと思ったが、怖すぎるので止めた。ちなみに、レベッカの『MOON』も持っている。
[PM7:30]
もっとすぐ着くと思っていたのに、1時間走ってもまだ温泉街の明かりひとつも見えてこなかった。闇の中を、うねうねと曲がりくねった道路を走り続ける。妖怪、幽霊、この世のものでない何が出てきてもおかしくない雰囲気がある。どこか時間の無い世界に迷い込んだようであった。
先を急いだ。時計を見て驚いた。まだ夜8時にもなっていない。なのに、自分の感覚では真夜中のようなのである。対向車も人もいないため、そんな錯覚を起こすのだろう。
[PM8:00]
走っても走っても闇。国道だっていうのに、舗装もされていない砂利道を走り続ける。そして単調な景色に変化は起こらない。永遠に続く魔界のトラップに引っ掛かってしまったんだろうか。本気でそう思い始めた。緊張感が徐々に高まってくる。その頃には、二人はまったく無言であった。
唐突に、道路に外灯が現れた。道路に沿って、ぽつぽつと外灯がついている。明かりは点いてないが民家らしい建物もある。緊張感がふっと和らぐ。しかし、もしかして異次元の世界?
[PM8:10]
[屋敷温泉→]と看板が現れた。看板に従ってハンドルを切る。まるでゴーストタウンのようであった。民家は点在しているが、明かりの点いている家は僅かしかない。外灯もまばらである。地図を見ながらうろうろするが、それらしい旅館は見つからなかった。やはり異次元の世界に迷い混んでしまったのだろうか。
[PM8:20]
地図によるとどうやらその辺らしい体育館の駐車場に車を停めた。しかし、目的の旅館の影も形も見えなかった。それにしても人っ子一人出会わない。深夜というより、丑三つ時のような感覚である。
私は彼女を車で待たせて、旅館を探しに車を降りた。きょろきょろ見回すと、どうやら川向こうにあるあの建物が旅館っぽい。旅館にしては各部屋の明かりも僅かしか点いていないが。しかし、川はどこから渡るんだ?うろうろ歩き回るが、車で渡れそうな橋はなかった。代わりに、一人で通れる幅しかない吊り橋が架かっているだけである。
そこしかないため、諦めて私は橋を渡った。一歩踏み出すたびにぐらぐら揺れる橋であった。
[PM8:30]
橋を渡りきった私の目に、薄ぼんやりと照らされる人の姿が映った。ここまで来て、初めて人を見た。これで道が聞けるとホッとして私は近づいたが、ぎくっとして立ち止まった。冷や汗が背中を流れた。私の目の先では三人の人影が動いている。そしてその三人の格好は…、三人ともお尻おっぱい丸出し、つまり素っ裸。そうなのだ、そこは露天風呂で、三人の女性が入浴していたのである。
裏口に回ってしまったのか? 見つかったら覗きと思われてしまう。私はなるべく見つからないように、こそこそと遠巻きに旅館に近づいていった。
玄関がある。意外に大きな旅館であった。看板を見ると、『晴秀館』と書いてある。目的の旅館ではなかった。おかしいと思って辺りを見回すが、旅館らしいものは見当たらない。ここの従業員の寮なのか、民家のような建物があるだけである。まさか、と思い、念のためにそっちに行ってみた。『かじか荘』…目的の旅館であった。
[PM8:40]
「遅かったですねぇ」旅館のおばちゃんが真剣に心配そうな顔でそう言った。見つけた後、私は車に引き返し、荷物を持って二人で来たところである。ちなみに、さっきの露天風呂は別に裏口なわけではなく、堂々と正面玄関の前の通り道に存在していたのである。「まだ9時…」と思うのは、大都会に生きるシティボーイの私ゆえのことであろう。ホテルといえばシティホテルやラブホしか行ったことはなく、旅館というものは初めてであった。「とりあえず、先に夕食にして下さい」そう言われ、部屋に荷物も置かないまま、食堂に案内される。静かである。他に客はいるのだろうか? 客室らしい場所も、明かりが無かった。
テーブルの上には、でかい皿に盛られた天ぷらの山があった。
彼女は、「おいしい、おいしい」と言いながら、ばくばく天ぷらを頬張っている。私は、あまり箸をつけなかった。「どうしたの? 食べないの」「いまいち腹減ってない…」聞かれて苦笑いをしながらそう答えたが、いや実は腹は減っていたのである。しかし私は食べなかった。「じゃあ、全部食べちゃうよ」嬉しそうにそう言いながら、なおも食い続ける彼女。すまん、実は今まで内緒にしてたが、天ぷらの衣に蟻んこが付いて一緒にからっと揚がっているのを、見ちまったんだ。許せ。蟻んこ食ったくらいじゃ死なん。
[PM9:20]
食事が終わると、部屋を指示された。薄暗い廊下の両脇は明かりの消えた部屋が並んでいる。奥に一部屋だけ明かりの点いている部屋。斑模様の障子の様である。変わったセンスだが、そこが私らの部屋だった。旅館のおばちゃんは指示しただけで、なにもくれない。おかしい、忘れてんのか?ねえ、鍵は?
部屋の出入りは障子戸で、鍵はないのだった。もういい加減疲れてきたので、文句を言う気力もなく仕方なくその部屋に向かった。部屋の前に来て、ぎょえ〜! 二人でしがみつく。斑模様と思っていたのは、障子から漏れる明かりに吸い寄せられて来た、虫たちであったのだ。蛾や黄金虫、あらゆる山の羽虫たちがびっしりと障子に張り付いていたのだった。
田舎の蛾は、胴体がやたらぶっとく、気味が悪い。他の虫もとにかくでかい。飛ばれると怖いので、虫を避けるようにゆっくりと障子を開け、静かに部屋に滑り込んだ。入ってみると、不思議なことに部屋の中には一匹も虫はいなかった。
狭い部屋である。四畳半も無い。畳の上に布団がふたつ並べられて、もういっぱいである。テレビも置いてない。狭いが、部屋の一辺には一畳分くらいの板の間があった。板の間には掛け軸が掛かっている、そしてその下には、腰長けくらいあるでかい男の子の人形が立って私らを見つめていた…。怖い…。
[その後]
多分、私たちは壊れてしまったのだろう。その後、死んだ虫のぷかぷか浮かぶ露天風呂で混浴を楽しみ、真っ暗な川原で持ってきた花火まで楽しみ、そしてぐっすりと眠ったのである。さすがに人形には後ろを向いてもらったが…。
私たちは、充分満喫したのであった。