地元の人に愛されている温泉というものは、やはりとてもいい温泉なわけであるが、しかし一見さんにしてみればちょっとばかし気を遣う場合もあるわけで…。訪問して早々、その洗礼は始まった。
田舎の住宅街をうろうろして、やっと見つけた一陽館。舗装のない、土がむき出しの駐車場に車を止め歩いて行くと、道の左右に古くさい建物がある。農家の庭先に迷いこんだかと錯覚してしまうような所で、どこが受付なのかわからない。適当に、薄暗い売店のような建物の縁側のようなところで数人とだべっていたおじさんに、入浴料300円也を支払った。格好もごく普通の普段着で、ちょいと入浴に来たおっちゃんとなんら変わりない。正直な話、このおじさんが本当に一陽館の人だという確証はなかったが、まあいいや。
普通の旅館ならここで風呂への行き方を教えてもらって、どうぞごゆっくりとなるはずなのだが、「はじめて?」と聞かれ、そうだと答えると何故だかいきなり正面の建物の脇に連れていかれた。どうやらそこが源泉の湧き出し口らしい。鍾乳石のようにこってりと茶色い堆積物で固まった四角い井戸状のものの中を見せ、お湯の説明を始める。中には三矢サイダーを製造中かと思わせるような、白く泡立つ液体が満たされていた。これが源泉なのだ。始めて来た人間には全員こうやって説明するのだろうか。お湯に対する自信なのか、ただ者ではない。しかし、おじさんごめん、説明全部忘れた。
脱衣所は内湯の建物に男女別にある。そこで服を脱ぎ、しかし内湯を通って露天風呂に行くわけでなく、裸のまままた外に出て露天風呂に向かう。運が悪ければ、今入浴に来た人や入浴後に涼んでいる服を着た人と素っ裸で御対面である。料金を払った売店のような建物からも見えている。なんともばつが悪い。
露天風呂に行くと、先客がふたり。湯船には縁まで溢れる程オレンジ色のお湯が満たされている。オレンジ色っていうか、泥水? ていうか、水溜まり? 頭がくらくらした。
真っ茶色に染まった多分昔はケロリン桶であったであろう桶で身体を流し、「おじゃましま〜す」と恐る恐る湯に浸かった。ぬるい。ぬる湯好きの自分でも、かなりぬるく感じた。お湯の中は全く視界が利かない。湯船の縁にはかりかりに温泉の成分が固まっている。湯量豊富で掛け流しだけあって、成分の濃さは感じられた。
そうこうしているうちに、ひとり、またひとりとおじいさん達が入りに来る。このとき気づいたのだが、皆が皆入浴中のあるひとりのおじいさんに必ず挨拶するのだ。どうも常連さんばかりのようだ。
やがてひとりのおじさんが、私たちに話しかけてきた。
「どこから来たの?」
「東京からです。」
まあ、お決まりの会話である。しかし、そこからが長かった。ぬるい湯のため、誰もが相当な長湯である。おじさんは、この湯を絶賛していた。「色々行ったけど、こんな温泉他にないよ。」いや、話が長い長い。温泉で話し好きのおじさんはよくいるが、これほどの人は初めてだ。こちらの口を挟む隙もない。
そのうちこのおじさん、妙なことを言い出した。
「こういう所にはなぁ、元締めみたいなのがいるんだよ。言ってみれば、牢名主みたいなもんさね。その人に気に入られればいいけど、そうじゃなかったらもう来れなくなっちまう。挨拶だけはちゃんとした方がいいぞ。」
脅されてしまった。
どうやら、皆の挨拶していたあのおじいさんがそうらしい。
「東京から来たんだってさ!」
おじさんが牢名主に私たちを面通ししてくれた。悪いおじさんではない。
「おお、そおかえ」
さすが牢名主、優しそうな顔だが、貫録がある。「どうも〜、こんにちは〜」私は精いっぱいの笑顔で挨拶した。しかし牢名主って、いったいなんなんだろう。へたなことしたら、いきなり烈火のごとく怒られるんだろうか。例えばタオルをお湯に浸けたりしたら、「おう、若造、温泉っていうものはなぁ…」なんて説教が始まるのかもしれない。あれ、でも、じいさんたち、手拭いお湯に浸けてるなあ。手拭いが真っ茶色だ。だったらお湯に入りながら身体をごしごし垢すりなんかしたら、「おう、若造…」てなことになるのかも。あれ、でも背中をごしごしやってるなあ。しかも亀の子タワシで…。いやどっちにしろ、末恐ろしいもんである。
そうこうしているうちに、もう1時間半を過ぎようとしていた。のぼせやすい私にしては入浴最長記録である。いい加減出たかったのだが、なかなか出るタイミングを掴みかねていたのだ。ぬるいのでのぼせるわけではないが、さすがにもう限界である。意を決して、もう出ることに決めた。
「すいません、じゃあお先に」
なにゆえすいませんなのか、と思いながらも、何故か謝らずにいられないのであった。牢名主のおじいさんはちらとこちらを見て、
「おお、皆の衆、こちら東京から来られたかたじゃ。」
紹介してるし…
でも、なんで今? けれど、これが牢名主の仕事か、と妙に納得であった。
内湯に戻って服を着て外に出ると、ひとりのおじいさんが話しかけてきた。
「ここは今日初めて?」
「はい、そうです。」
にやり、とおじいさん、「もう説明聞いた?」と言いながら、いきなり私を建物の横に連れていった。例の、源泉の湧き出し場所である。
「あ、来たとき聞きました。」
「ここから湧いているんだけどな、朝とか白い靄がさ〜と溢れだしてな…」
だからもう聞いたってばさ。
再び来たときと同じような説明を聞かされてしまうのであった。けどおじいさん、ごめん、説明全部忘れた。
いや、なかなか愉快な経験でした。