古い温泉というのは、マニアックな方々が集まっているのではないかと、いつも内心びくびくなのである。特にこの道を極める気もない普通の温泉好きの観光客である自分にとっては、その土地その土地で新鮮な驚きを覚える出来事も少なくない。
那須高原有料道路の手前にある那須湯本温泉の「鹿の湯」は、那須高原の中でも最も古い入浴施設である。最古らしく重厚感ある古ぼけた建物を前に暫く様子を窺ってみると、老若男女、ぞくぞくと入って行き、そして出てくる。それ程までに人を惹きつける温泉なのだろうか。宿泊棟のない純粋な入浴のみの施設なので、その様子は古い時代の銭湯でも見ているようであった。

なにはともあれ入ってみなくては何もわからない。早速入浴料を支払い、廊下を渡って浴室に向かう。補修はされているらしく、外見より内装はずっと綺麗であった。廊下を突き当たると右が男湯、左が女湯に別れる。実はこのときまで鹿の湯は混浴だと思い込んでいた。ガイドにはしっかりとそう紹介されていたのだ。しかし、数年前に男女別に別けられたらしい。
脱衣所に向かう途中、浴室横の廊下を通るのだが、ガラス窓になっていて浴室内が見える。小宴会場のような広さの浴室に、広くない四角い湯船がいくつか並んでおり、そこに若いのから年寄りまで、わらわらと大勢が肌触れ合うほどみっちりと入浴していた。それを見て、正直、萎えた。
急速にしぼむ気持ちをなんとか奮い立たせ、私は脱衣所に入り、隅っこの方で服を脱いだ。
浴場は木造りの、田舎の集会所といった風情である。湯船は複数あり、温度によって別れているようだ。脱衣所側から手前がぬるく、奥の湯船ほど熱い。もともと熱い湯は苦手なので手前の湯船に浸かったが、それだけでなく実は、奥の湯船にはおじさんたちが大勢陣取っていたため、恐れをなしてしまったというのが正直な所だ。
そのおじさんたち、なにやらひそひそやっている様子。何事かと思って見ていると、おもむろに湯船の間にある蓋を開けて、洗面器でお湯を汲み始めた。源泉が湧いているようだ。お湯を汲む者、湯船にそそぐ者、きっちり分担が決まっているらしい。湯気に煙る薄暗い明かりの下で、素っ裸のおじさん達がぼそぼそ言いながら統制のとれた行動をしているのである。思いっきりあやしい光景ではないか。とても私なんかが入り込める雰囲気ではない。なんだかそこだけ濃厚な時間が流れているようであった。
しかし、その頃女湯ではそんな私の予想だにしない、凄惨な光景が繰り広げられていたのである!
さて、女湯の方である。ツレが入っていくと、男湯と同じようにそこには、わらわらと老若取り混ぜて賑わっていた。やはりへたなことをすると怒られると思ってびくびくしていたらしい。
服を脱いで浴場へ行くと、ひとつの光景に目を奪われた。
浴場に入ると手前には四角い湯船が四つ並んでいる。そこは古い湯船で、さらに奥には新しく増築された広い湯船がある。新しい方と古い方では床の高さが違って、新しい方が低くなっているため、短い階段でお互いが通じている。
手前の湯船に恰幅のいいお婆さんが、湯船の縁に腰掛けていた。もちろん風呂なのだから裸。その隣で、一人のおばさんが壁に足を付けて屈伸運動をしている。これも当たり前だが裸である。どうやらお婆さんが、おばさんの運動をコーチしているらしい。裸のおばさんの屈伸運動…。
次は、目で合図されて、おばさんは階段の方に行った。
ラジオ体操よろしく、背筋をぴんと伸ばし、階段を上り下りしながら、腕を大きく上げて両脇からゆっくり降ろす運動を始めた。「いっちにぃ、いっちにぃ」裸のおばさんのラジオ体操である。あまり想像したくない…。
やがて運動が終わるとおばさんは、お婆さんの所ににじり寄り、大きな声で「ありがとうございますぅ〜」と、慇懃に手を揉まんばかりのお礼である。お婆さんがぼそぼそと何か言うと、また「はい!ありがとうございますぅ〜」
このばば…(おっと)お婆さん、何者なのかと思ったそうである。女風呂名主であろうか。
…いやあ、濃い。濃すぎる。
恐ろしくなった彼女は、湯に浸かるのもそこそこに、風呂場を飛びだしたそうである。そして、これまたそこそこに風呂から上がった私と、特に時間を合わせた訳ではないにも係わらずほぼ同時であった。常連で賑わう温泉とは、なんと恐ろしい所であろう。
そして二人ともこの時、入浴最短時間の記録を更新したのであった。